分子コンピュータの設計では,分子生物学的実験からのフィードバックが重要であ る.それは,生体分子の挙動を「計算」という側面から検討するという発想が,これ までほとんどなかったために,分子コンピュータの実装に必要とされる分子レベルで の知見がはなはだ欠如していたからである.坂本・横山らは,このような分子的知見 にもとづいた分子コンピュータ設計を支援するするために,次のような点について研 究を行った.
坂本・横山らは萩谷らと協力して,自律的DNA計算の実現可能性を示す実験に世界 で初めて成功した[Sakamoto00Science].従来のAdleman-Liptonパラダイムに基づく DNA計算との違いは,DNA分子自身の演算能力を十分に活用して問題の解を得ている点 である.特に,一本鎖のDNA分子が二次構造を形成する(フォールディングする)性 質が,解の判定に用いられた.一本鎖DNAのフォールディングは反応液の温度を制御 するだけで行われ,複雑な実験操作を必要としない.
実際に解いた問題は,6変数,10節の3-SAT問題の1例である(以下の解法は,「 SAT Engine」と名付けられた).解法の分子的実装を成功させるためには,以下のよ うな実験上の課題に留意する必要があった.
坂本・横山らは萩谷らと協力して,SAT Engineによって実証された「自律演算」の パラダイムをさらに押し進め,汎用演算が可能な「状態遷移機械」をDNA分子上に実 装することを目指した(分子オートマトン).実装は具体的には,DNA分子のヘアピ ン構造形成とDNAポリメラーゼによる伸長反応を組み合わせた反応(Whiplash 反応 と名付けられた)を利用して試みられた [Hagiya98GP].坂本・横山らは特に,この 反応の制御にフォーカスした研究を行った.
各状態は15塩基の長さの塩基配列で定義された.3ユ 末端の15塩基は「カレント状 態」を表し,遷移テーブル内の相補部位と塩基対を形成してヘアピン構造を形成し, 同時に,DNA鎖伸張反応を開始させる.この結果,DNAの二本鎖部分は30塩基の長さと なるが,これが高温変性過程によって一本鎖に解離した後,再び,3ユ 末端の15塩基 が遷移テーブル内と塩基対を形成してヘアピン構造を形成する.このようにして状態 遷移が繰り返されるが,高温変性後のヘアピン形成の際に,15塩基長の配列と30塩基 長の配列が競合した結果,短い方の配列が結果として二本鎖を形成するという「パラ ドキシカル」な状況を想定している.このような状況を実現するための「等温反応」 条件を実験的に見出した [Sakamoto99BioSystems] . その後の改良もあって,8回 の連続的状態遷移を自律的に行うことに成功している.
Whiplash反応では,DNA伸張反応は分子内プライミングによって開始される.これ に対して,外部から加えたプライマーによってDNA伸張を行うことで,ある種の「I/O 装置」を分子オートマトンに賦与することにも成功している [Komiya00DNA].これ はWhiplash 反応の応用の1例であるが,他の研究グループからもWhiplash 反応を利 用した計算モデルが提案されている.
DNAコンピュータの分子的実装において,遺伝子操作の技術が不可欠である.しか し,遺伝子操作技術は「計算」を目的として開発・発達したものではない.DNAコン ピュータの計算モデルを理論的に開発したとしても,その中で使用される実験技術が 「計算」に適したものかを,効率・エラーの発生などの面から検討することが重要で ある.坂本,横山らは,3-SAT問題の解法 [Sakamoto00Science] で用いた「突出末端 によるライゲーション法」について,こららの検討を行った [坂本00MPS].
ライゲーション法による「DNA分子の自己会合反応」は,解候補の生成などに有用 な手段としてよく利用されている.例えば,ハミルトン経路問題の解法において,L. Adlemanは「候補経路」の生成を,20塩基の長さの一本鎖DNA(single-stranded DNA, ssDNA)の自己会合によって行っている.「突出末端法」は遺伝子操作ではありふれ ス方法であるが,ライゲーションの際に,DNA分子間で (i) 間違った連結を生じたり ,(ii) 連結の生成頻度に偏りを生じたりする可能性が考えられる.これらの「望ま しくない反応」は,計算結果に致命的な影響を与え得る.ライゲーション反応を, DNA計算のための実用的なツールにするためには,「望ましくない反応」を抑え込む 必要があると広く認識されている.
坂本,横山らは,成功した3-SAT問題の解法において実行されたライゲーション反 応を解析したところ,「望ましくない反応」が生起したとき,間違った連結を含む DNA分子を除く操作が効果的であることがわかった.ライゲーション反応は計算の「 素過程」となる反応の1つであるので,素過程としてのライゲーション反応を詳しく 解析した研究はこれまでにもなされていた.しかし,問題のサイズが大きくなるにつ れ,実験操作の困難さが著しく増すという傾向があり,素過程の解析結果がそのまま 大きな問題に適用できない場合もある.坂本,横山らの結果は,大規模なDNA計算を 実用化するためには,分子生物学的実験手法を洗練させるだけでなく,計算スキーム の中にエラーを修正するようなステップを組み込むことが有効であることを示してい る.この結果は,「望ましくない反応」の起きる頻度からDNA計算に見切りをつける 論調に対する強力な反証の1つにもなっている.
坂本・横山らは,DNAは単に情報を蓄えるだけでなく,A-T,G-Cという塩基対形成 を通じて自分自身に蓄えられた情報を処理することも可能であることを示してきた. このように,DNA分子は,「情報分子」または「計算分子」としては最適な分子であ る.しかし,抽象的な計算モデルでは必ずしも特定の分子を指定しない.DNA分子以 上に扱いやすい新規な「計算分子」があれば,分子コンピューティングの実用性がさ らに増すと考えられる.DNAコンピュータの成功に刺激されて,自己会合以外にも構 造変化・拡散などの現象に基づいた分子計算が提案されており、今後、分子計算の基 礎理論(分子プログラミング)が整備されてくると思われる.それぞれの計算様式に 最適な新規分子をデザイン・開発することで,分子計算の計算力を高めたり,実用化 への道が拓かれたりすることが期待される.その一例として,全く新規な計算分子と は言えないが,坂本・横山らは,通常の4つの塩基以外の非天然塩基であるイソグア ノシン(isoG)とイソシチジン(isoC)をDNA計算に利用することを試みた [Sakamoto99BioSystems].この結果,これらの非天然塩基の利用によって,DNA伸張 反応の開始点(プライミング部位)を限定でき,計算精度の向上につながる可能性が 示された.一方,isoG-isoCの塩基対が A-T, G-Cほど特異的でないために,計算のデ ザインが制約を受けるという面も明らかにされた.これらの結果は,一層特異的な新 規塩基対の開発を促す動機になるだろう.
分子生物学はその草創から,コンピュータの諸概念を取り入れてきた.特に「遺伝 コード」の概念にその経緯がよく示されている.遺伝コードは20種類のアミノ酸を6 1種類のコドンによって指定するコードである.この自然のコードを改変して人工的 な遺伝暗号系を構築する試みが,坂本・横山らによって行われた.この研究の目的は ,自然が実際に用いている「コード」や「演算」のロジックを明らかにして,人為的 な目的に利用することである.人工遺伝暗号の構築のポイントになるのは,アミノア シルtRNA合成酵素の基質特異性の改変である.これは非常に難しい蛋白工学上のチャ レンジとして広く認められており,坂本・横山らも,立体構造の解析や点突然変異の 効果についてのデータ収集にとどまった.
分子進化は,一種の「進化的計算」とみなすことができ,特に人工的に行われる分 子進化実験は,分子の改変可能性を明らかにするだけでなく,進化的計算の普遍的性 質についても知見を与える可能性がある.坂本・横山らは,種々のRNAアプタマーの セレクションによって,RNA分子の実現し得る機能レパートリーについての知見を蓄 積した [Kiga98NAR] [Kimoto98FEBS].一方,分子進化の演算としての性格について は今後の課題として残された.
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