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分子メモリ

はじめに

Adleman にはじまるNP問題への分子による超並列計算は、分子コンピューティングの重要な側面のひとつである[Adleman94Science]。 しかしながら、Adlemanの方法は問題解決システムとしてみた場合、必ずしも適切ではない根本的な困難を含んでいることが指摘されてきている。 我々はそれらの困難のうち、与えられた問題毎に適切な配列設計を行わなければならないというオーバーヘッドに焦点を当てた 本研究の目的は配列設計の不要な汎用の計算の枠組みの提案にある。

分子メモリの研究は、緩く結合した国際共同研究としてスタートした。 もともとの数学的なアイデアはアメリカ・ビンガムトン大学Tom Head による[Head99PatternFormation]。 最初の実装・実験はオランダ・ライデン大学において成功した[Head00BioSystems]。 少し遅れて、アメリカ・ビンガムトン大学において異なるアイデアのものが提案され成功した[Head99CEC]。この実験には、本プロジェクトの支援を得て山村が直接参加している。 その後、山村はメモリの大容量化を目指して、ペプチド核酸(PNA)を用いた実装に成功している[山村00MPS]。

以下、本節では、破壊書込み型分子メモリの水溶液による並列計算法の原理(アクエアス・コンピューティング)について述べ、提案されているさまざまな実装について述べた後、ペプチド核酸による大容量化の試みについて述べる。 このような利用法・実装法にまたがる系統的な分子メモリの研究は、材料・デバイス分野においてもまだ行われていない。ビンガムトン型CEL法、および東工大型PNA法は本プロジェクトによる成果である。

成果概要

アクエアス・アルゴリズム

図1: 分子メモリとアクエアス・アルゴリズム

メモリーとは、アドレスに対する内容を随意に書き換えられるような機構である。半導体のメモリーでは、アドレスはLSIの配線パターン上の物理的位置であり、内容は半導体の電位や電流の有無といった電子的状態で0、1のビットをあらわす。ハードディスクでは、アドレスは磁性体ディスク上の物理的位置であり、内容は磁性体の磁気的状態でやはり0、1のビットをあらわす。これら従来のメモリーでは、読出し・書込みは直列的に処理され、メモリー自体は固体上に一体化されて自由には動けないという特徴がある(図1左)。

一方、分子でメモリーを作ることを考える。アドレスは分子上の物理的位置となるであろう。例えばDNA分子なら、それはA, T, C, Gの4文字からなる配列であるから、特定の文字列がその分子中でユニークであればアドレスとして使うことができる。内容は、分子に直接書き込まれる何らかのマーキングであり、さまざまな実装方法が考えられる。どんな実装法をとったとしても、読み出し・書込みはメモリーの集団に対して並列的に処理されるであろう。それぞれの分子の位置は水溶液中で勝手にランダマイズされるため、構成分子の比率を保ったまま容易に分割でき、また容易に均一に混合できる(図1左)。この特徴は、従来の固体上に一体化されたメモリーには見られない、水特有の特徴であることから、アクエアス(Aqueous:水様)と呼ぶ[Head99CEC]。

分子メモリの利用法のアイデアを述べる。図1右に概念図を示す。計算機は初期状態においては、膨大な数の同一分子が溶け込んだ水溶液からなる。同一分子からスタートすることで、DNA配列設計が回避される。

実験室プロセスによって水溶液は分割・混合され、選ばれたビットを変更してゆく。個々の分子はメモリーであリ、その集合が全体として1個の並列計算機となる。水の役割は根本的なものである。水によって、(1) メモリー分子はバラバラに分けられ、個々の分子に別々にアクセスできる。(2) 分子の位置がランダマイズされる。(3) メモリー全体をほとんど区別できないほど同一構成の任意個の部分に分割することができる。これらの部分にはそれぞれ別々の操作を施すことができ、(4) 任意に混ぜ合わせることができる。

後に示すように、あるパターンの計算のためには、メモリー分子は各アドレスにつき1回だけ書き込み可能ならば良く、状態を元に戻す操作は必要ない。このような非対称性は、メモリー分子の集団を使って問題を解決するプログラムを書く上では制約となる。しかし、現実の多くの分子生物学的操作がこのような非可逆的な性質を持っており、その意味では実装の可能性を広げている。

最後に、電気泳動などによって1の数の最も多い分子を分離することによって、ある種のパターンのNP問題を簡単に解くことが出来る。

さまざまな実装

図2: ライデン型CDL法とビンガムトン型CEL法


図3: 騎士配置問題の例


図4: これまでに解かれた問題

分子メモリにはさまざまな実装法が考えられる。図2を用いて2つ紹介する。いずれも環状のDNAプラスミドをメモリ分子として用い、書込みには制限酵素などのDNA修飾酵素を用いる。

図左はオランダ・ライデン大学によるもので、同一の制限酵素サイトで短いDNAの断片を挟むような部分を作っておき、制限酵素の適用によってこの断片を削除し、十分に薄めた溶液で接続して再環状化することで破壊書込みを実現する[Head00BioSystems]。短い断片が存在すれば1、削除されていれば0を表す。異なる制限酵素を用いて1分子中に複数組のこのような部分を持たせることによって、数ビットのメモリーが実現できる。cut, delete and ligateの頭文字を取って、CDL法と呼ぶ。

図右はアメリカ・ビンガムトン大学によるもので、唯一の制限酵素サイトをそのままビットとして用いる。制限酵素の適用によって線状化されたプラスミドにDNAポリメラーゼを適用して、スティッキー末端を平滑化した後、平滑末端を接続して再環状化する[Head99CEC]。この手順によって接続部分の配列が変化するので、制限酵素サイトが消失する。制限酵素サイトのある場合を1、無い場合を0とみなす。分子中に複数の唯一の制限酵素サイトがあればそのまま数ビットのメモリーとして利用できる。cut, elongate and ligateの頭文字をとって、CEL法と呼ぶ。

ライデン大学では5ビット相当のCDL法による分子メモリを実装し、NP完全な問題の一種であるグラフの極大独立部分集合問題に対して実験例を示している。

ビンガムトン大学では、組換え遺伝子技術で常套的に使われる、商用のDNAプラスミドを用いて、8〜12ビット相当のCEL法による分子メモリを実装し、やはりNP完全であるブール式充足問題、および騎士配置問題に対して実験例を示している。

図3に騎士配置問題の例を示す。騎士配置問題はチェス版の上に騎士を互いに取り合わないように配置する問題である。図は8ビットの分子メモリを用いて3×3の盤面に騎士を配置する問題を解決する場合の手順を示す。この場合の騎士配置問題は、図に示すようなグラフの独立部分集合を求める問題に帰着できる。手順は、盤面を騎士で埋めた状態からはじめて、8通りの取り合う騎士の組合せのそれぞれについて、片方を盤面から取り去る、という動作を繰り返す。図4にこれまでにCELで解かれた問題の関係を示す。

ペプチド核酸による実装

図5: ペプチド核酸(PNA)とDNAへの侵入

分子メモリでは分子の特定の部位にマーク付けできればよいことに着目して、ペプチド核酸を利用した新しいアクエアス・コンピューティングの実装について提案し、実装した。 ペプチド核酸(PNA)とは人工的なDNAの類似物である[Hyrup96BioMC]。 図5左に示すように、DNAが糖−燐酸鎖のバックボーンに4つの塩基を配した構造を持つのに対して、タンパク質に見られるペプチド鎖をバックボーンとして4つの塩基を配した構造をもつ。図中、BはA, T, C, Gの4種の塩基を表す。

PNAはDNAとの比較・相互作用において次のような際立った特長を持っている。 まず、DNA-DNA相補鎖よりもDNA-PNA相補鎖の方が、より高い融解温度を持つ。すなわちより強固に結合する。これはDNAの糖-リン酸鎖が強く負に帯電して反発し合うのに対して、ペプチド鎖には極性が無いからである。その結果、図5右に示すように、DNAがすでに2本鎖を構成していても、相補的な部位があれば、PNAはそこに侵入して、結合を奪い取る。さらに、塩基配列によっては、PNA-DNA-PNAからなる3重鎖を極めて安定的に構成する。 また、DNA-DNA相補鎖よりもDNA-PNA相補鎖の方が、より高い配列特異性を持つ。このことはミスハイブリダイズを嫌う分子計算にとっては好ましい性質である。カスタムDNAと同様に、末端にさまざまな標識を添付することができる。その反面、PNAは全くの人工物であるので、DNA-PNA鎖は生体の酵素では増幅できず、壊せない。あるいは現状ではカスタムDNAの数倍とまだまだ高価であり、比較的短い18ベース程度の配列までしか合成できない上に、望みの配列を持ったPNAが合成できるかどうかは確実には予測できないという好ましくない特徴もある。

破壊書込みのアイデアは非常に単純で、2本鎖DNAへのPNAの侵入を利用する[山村00MPS]。 まず、メモリ分子には2本鎖DNAを利用する。 アドレスはユニークな部分配列で与えられる。 2本鎖DNAへのPNAの侵入反応を利用して,侵入のない場合を1、侵入のある場合を0とする。PNAはDNA同士よりも強固に結合するため、非可逆的な書き込み操作となる。 PNAの侵入によって分子量が大きくなるために、最後にゲル電気泳動によって1の数をカウントする。 さきの2つに倣って、PNAの侵入による分子メモリの実現法を東工大型PNA法と呼ぶ。

山村は、信頼性確認実験を行い。PNAによる侵入反応の条件を確認し、数ビット分の分子メモリを実装した。東工大型PNA法は本プロジェクトによる本年度の主要成果である。

まとめと将来展望

破壊書込み型分子メモリの水溶液による並列計算法の提案と、その分子生物学的実現を試みた。

ここまでに述べてきた分子メモリは、(1) 水溶液中で容易にランダマイズされる点で従来の固体上のメモリと大きく異なり、(2) 破壊書込みでよいため自然に多く存在する生体分子の利用可能性が高い、という特徴がある。また、分子コンピュータとしては、汎用の分子を用意した上で、(1) 分子反応の自律的な側面は利用せず、(2) プログラミングは実験操作に持たせる、という極端なケースになっている。今後、分子メモリが実用化されるためには、(1) 少なくとも100ビットクラスの大容量化、(2) 書込み・分離の高速化、が必要である。主要成果として報告したPNAの利用は前者の大容量化への足がかりになるものと考えている。後者の高速化については、光を利用した書込み操作の開発を、ビンガムトン大学で計画している。また、液体中の分子という点で一致する核磁気共鳴(NMR)による量子ビットの実装と組み合わせによって、量子計算との結合という可能性もあり、今後の展開が期待される。

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