分子計算とは、分子を用いて人間の意図した情報処理を行うこと、すなわち、 分子によってコンピュータを作ろうという試みである[萩谷01計測と制御][萩谷00信学会誌] [萩谷00遺伝的アルゴリズム][Hagiya99NGC]。分子で計算を行な おうという考えは古くからあったが、実際にDNAなどの生体分子を用いてコン ピュータを構築しようとする研究は、1994年のAdlemanの仕事を契機として始 まった[Adleman94Science]。特にDNAを用いた分子計算をDNA計算という。
分子レベルの情報処理に関する研究は古くから様々なアプローチによって行わ れてきたが、DNA計算と従来研究との違いは、前者が何らかの意味でユニバー サルな計算モデルに従う汎用的なコンピュータを構築しようとした点にある。 これは、DNAという分子が4種類の核酸塩基を自由に組み合わせて作られるとい う特徴にヒントを得ていると考えられる。DNAの持つこのような特徴は「組合 わせ複雑さ」と呼ぶことができる。すなわち、4種類の核酸塩基を組み合わせ ることにより、いくらでも複雑な情報を表現することができる。DNA以外にも RNAやタンパクといった生体分子はこのような性質を有しているため、分子計 算には主として生体分子が用いられている。「組合わせ複雑さ」が「生命の複 雑さ」に通じることはいうまでもない。
分子計算は、「生命情報学」というより大きな枠組の中で位置付けられる。 「生命情報学」は、生命に対する計算論的な解析を行ない、その結果を工学的 に応用する学問分野ということができる。生命は非常に多くの階層から成り立 っている。素朴に考えても、分子、細胞内小器官、細胞、組織(特に脳)、個 体、社会、生態系、といった階層が思い浮かぶ。生命情報学は、このような生 命の各階層に対して、計算論的な解析を試み、その結果を工学的に応用しよう とする。計算論的な解析においては、計算モデル、計算の能力、計算の効率と いった観点から解析が行なわれる。工学的な応用においては、解析の結果を利 用して、人工的なシステムを構築することを試みる。分子計算は、上述の階層 の中で最も基礎的な階層である分子を対象とする研究分野である。
分子計算は、分子、特に生体分子が持つ計算能力を解明し、分子の持つ計算能 力を活用した情報処理の機構を実現することを目標としている。分子の反応を 利用することにより、より速く(超並列)、より小さく(微小)、 より安い(省エネルギー)情報処理の機構が実現できると期待される。 また、以上のような情報処理の機構を実現するためには、いままでにない新し い情報処理技術、特に、新しい計算モデルが必要となると考えられる。このよ うな新しい情報処理技術を切り開くことも分子計算の目標である。
従来の半導体技術の行き着く先として、分子レベルで回路素子を実現する技術 が期待されている。このような技術は「分子エレクトロニクス」と呼ばれ、分 子素子を用いたコンピュータも「分子コンピュータ」と言うことがある[リード00日経サイエンス]。 分子計算と分子エレクトロニクスとの違いをまとめる と以下のようである。
日本学術振興会の未来開拓事業は1996年度より開始されたが、その中で も、複合領域の生命情報分野が、上述した「生命情報学」の発展の責任を負っ ている。生命情報分野は、安西祐一郎慶応大学理工学部長を推進委員長とし、 生命情報分野の研究を行なう多くのプロジェクトから成り立っている。いうま でもなく、本プロジェクト「分子コンピュータの理論と構築」は分子計算に関 する研究を行なうプロジェクトであるが、特に、分子計算と関係が深いプロジ ェクトとしては、以下のようなものがある。 「生物的適用システム」(小林プロジェクト)は進化的計算に関する研究を広 く行なっており、本プロジェクトと多くの接点を有している。実際に本プロジ ェクトとの間で種々の共同研究が行なわれている。「人工細胞デバイスの開発」 (生田プロジェクト)は、いわゆる化学ICの開発を行なっているが、化学ICは 分子計算の能力を高め規模を大きくするためには必須の技術と考えられる。 「生命情報プロセッサの入出力機構の設計と構築」、特に、その生化学的アプ ローチ(芳賀プロジェクト)においては膜受容体とシグナル伝達系の研究が行 なわれているが、膜受容体は、将来的には分子コンピュータの入出力機構とし て利用されることが期待され、シグナル伝達系は、生きた細胞を利用した分子 計算の可能性を示唆している。
本プロジェクト「分子コンピュータの理論と構築」は、1996年度に発足し、 2001年3月にまもなく終了する。以下は研究組織である。
萩谷昌己(計算機科学・東京大学大学院理学系研究科)
横森貴(計算機科学・早稲田大学教育学部)
小林聡(計算機科学・電気通信大学電気通信学部)
榊原康文(計算機科学・東京電機大学理工学部)
陶山明(生物物理学・東京大学大学院総合文化研究科)
坂本健作(生物化学・東京大学大学院理学系研究科)
伏見譲(生物物理学・埼玉大学工学部)
山村雅幸(システム工学・東京工業大学大学院総合理工学研究科)
有田正規 (ゲノム情報学・経済産業省・産業技術総合研究所)
西川明男(計算機科学)
John Rose(計算機科学)
明らかなように、本プロジェクトでは、情報科学(計算機科学、人工知能)の 研究者と、生物学(生物物理、生物化学)の研究者が、密接な連携のもとで研 究を行って来た。
本プロジェクトの研究成果について述べる前に、 分子計算研究の世界的な動向について簡単にまとめる。
DNA分子を用いた計算、いわゆる「DNA計算(DNA Computing)」の研究は、1994 年にScience誌に掲載されたAdlemanの論文[Adleman94Science]によっ て始まったと言っても過言ではない。Adlemanはこの仕事においてDNAを用いて ハミルトン経路問題を解く方法を提案し、実際に生物学実験を行って7頂点か ら成る有向グラフのハミルトン経路を求めることに成功した。それ以前にも分 子を用いた計算の考えは報告されていたが、Adlemanの仕事は、DNA計算の超並 列性に着目し、また、小規模ながら実際に実験を行った点が従来の研究とは大 きく異なる点である。
Adlemanの仕事が起爆剤となりDNA計算の研究分野が形成された。1995年より、 ``International Meeting on DNA Based Computers''と呼ばれる国際ワークシ ョップがDIMACS(Center for Discrete Mathematics and Theoretical Computer Science)の支援のもと毎年開かれている。100名程度の研究者が集ま り活発な議論が行われている。また、ゲノム情報に関する国際会議(例えば Pacific Symposium on Biocomputing)や進化的計算に関する国際会議(例えば Genetic and Evolutionary Computation Conference)においても、DNA計算に 関するセッションが数多く開かれてきた。さらに、多くの学術論文が、 Nature, Science, Nucleic Acids Research, Journal of Computational Biology, Journal of Combinatorial Optimization, BioSystems, IEEE Transactions on Evolutionary Computation, Soft Computingなどの学術 雑誌に掲載されている。なお、DNA計算関連の特許も既にいくつか取得されて いる。
Adlemanの仕事は、この分野における多くの研究のきっかけとなり、極めてわ かりやすい目標を設定したという点において非常に大きな価値があるが、DNA 計算の「超並列性」だけを強調し過ぎた点は否めない。その結果として、この 分野の目標が現在の電子計算機よりも高速にハミルトン経路問題等の組合せ最 適化問題を解くことだけであるという印象を人々に与え、その目標を達成する ことが現状の技術のみでは困難であるために、この分野全体に対する不信感を 広めてしまった。
しかし、生体分子が持つ計算能力に関する深い理解は、生体分子を対象とする 様々な分野において広く活用することが可能なはずである。例えば、以下に紹 介するDARPA-NSFのコンソーシアムでは、超並列性に限らず生体分子の計算能 力を活用すべく様々な試みが成された。
米国では、DARPAとNSFによって「生体分子計算(biomolecular computing)」の コンソーシアムが構成され、生体分子の計算能力の様々な応用が試みられた。 このコンソーシアムはDuke大学のReifをリーダーとし、1997年に開始され2000 年の9月に終了した[Reif99DARPA]。
このコンソーシアムは、``Prototyping Biomolecular Computations''と呼ば れ、分子の反応を利用することにより、分子の超並列性を利用した高速計算だ けでなく、分子の微小性や計算のエネルギー効率の良さを活用した応用が模索 された。
特に、分子計算の応用として微小加工(nanofabrication)の技術が活発に研究 され始めた。この分野は、いわゆる「ナノテクノロジー(nanotechonology)」 の一種と考えられ、特に現在ではDNAが主として用いられているため「DNAナノ テクノロジー」と呼ばれている。単なる微細加工だけでなく、ナノスケールの マシンである「ナノマシン(nanomachine)」を作る方向へも進展している。
分子計算の応用としては、DNAフィンガープリンティング等の遺伝子解析技術 も極めて有望である。コンソーシアムでは、DNAチップのような単純な計測技 術ではなく、分子の計算能力を活用した知的(intelligent)な計測技術の研究 が行われている。このような分子計算のバイオテクノオロジーへの応用は、 computationally inspired biotechnology(計算に触発されたバイオテクノオ ロジー)と呼ばれ始めている。
ヨーロッパでは、Leiden大学のRozenbergを中心として、分子計算のコンソー シアムが形成されている。Leiden大学に設けられたCenter for Natural Computingがその中心となっており、ヨーロッパの多くの研究グループが属し ている。
ヨーロッパにおける「分子計算」研究の特徴は、分子計算のための基礎理論が 活発に研究されていることである。特に、形式言語理論に基づき、分子反応の 計算可能性や計算量に関する理論的な解析が行われ、数多くの研究成果が報告 されている。
以下、本プロジェクトの主な研究成果について簡単にまとめる。
また、本プロジェクトは、発足の当初から海外の研究グループとの交流を活発 に行ってきた。米国のDARPA-NSFコンソーシアムの研究グループや、ヨーロッ パの研究グループとの間で人的な交流を深めており、一部では共同研究も行わ れている。特に、米国のコンソーシアムのリーダーであるDuke大学のReif、そ の中で中心的な役割を担っている若手研究者のWinfree、ヨーロッパのコンソ ーシアムのリーダーであるLeiden大学のRozenberg、DNA計算の理論の大家Paun を招聘し、活発な研究交流を持った。上述したように、米国のコンソーシアム のHeadと山村はプラスミドを用いた分子メモリに関して共同研究を行っている。
DNAコンピュータが通常の電子コンピュータよりも速くNP完全問題を解けるよ うになると考えている人はほとんどいないであろう。たとえ100変数のSAT問題 が解けたとしても、電子コンピュータを凌駕するには至らない。電子コンピュー タに比肩するためには、アルゴリズムや実装技術の両面において非常に多くの ブレークスルーが必要であると考えられる。
現在では、分子計算によって電子コンピュータが扱うのと同じ問題を解こうと すること自体がそもそも間違いであるという考えが主になってきている。その ような考えによれば、NP完全問題は分子計算の能力を計るためのベンチマーク と位置付けることが適切である。
従って、分子計算は従来の電子コンピュータと競争をするのではなく、分子レ ベルの様々な情報処理を目指して、その基礎から応用までを総合的に研究する 学問分野になるべきだと考えられる。既に、分子計算をバイオテクノロジーや ナノテクノロジーへ応用しようとする研究は活発に行われている。特に、現在 の分子計算が生体分子を扱っていることから、バイオテクノロジーへの応用は 目前である。
例えば、陶山らはDNA計算のために開発したロボットをDNAチップと結び付ける 研究を行っている。陶山らのDNAチップはユニバーサルDNAチップと呼ばれ、細 胞からの遺伝子情報をそのままDNAチップで計測するのではなく、いったん人 工的な塩基配列(DNA Coded Number)に変換してから計測を行うようになってい る[Suyama00CCMB]。DNA Coded Numberは、DNA計算における配列設計の技術を 用いて設計されているので、相互のインタラクションが少ない、PCRの増幅率 が均一である、などの利点を持っている。さらに、陶山と榊原は、DNA Coded Numberを用いてDNA計算を行うことにより、学習などの知的な推論を行う「知 的DNAチップ」を提案している[Sakakibara00GIW]。これは、分子計算のバイオ テクノロジーへの応用の典型例である。近年、分子計算の技術を応用したバイ オテクノロジーは、computationally inspired biotechnologyと呼ばれつつあ る。
分子エレクトロニクスを含むナノテクノロジーも、分子計算の重要な応用分野 である。DNAタイルは、DNAを用いたナノテクノロジー「DNAナノテクノロジー」 の典型的な技術である。既に述べたように、DNAタイルは一本鎖の結合手部分 にバリエーションを持たせることが可能であるため「組合わせ複雑さ」を有し ている。従って、その自己組織化によって、単純な繰り返し構造だけでなく、 特定のアルゴリズムに従った構造を形成することができる。このような自己組 織化はalgorithmic assemblyと呼ばれている。algorithmic assemblyは、例え ば、分子エレクトロニクスにおいて分子素子を配置するテンプレートを作製す る技術として利用される可能性がある。
最後に、まだ夢物語だが医療への応用例について触れる。分子計算では、 Whiplash PCRをはじめとし、複数の状態を持ち外界の状況などに従って状態を 変化させる計算モデルの研究も行われている。外界の状況を計測して情報処理 を行う分子マシン、もしくは、細胞マシンが作ることができれば、医療への応 用の道が開けるかもしれない。分子計算を応用した賢い大腸菌は、体内の状況 に従って情報処理を行いつつ、適切な薬物を生産して体内に放出してくれるだ ろう。
目次へ